剣道家をめざすセンセのぶろぐ。

「師弟同行」教うるは学ぶの半ばなり、、、どちらもまだまだです。

2011年 剣道論

「大強速軽」:剣道の‘教え’を考える[3]

とある学校の脇です(後述)
とある学校の脇です(後述)

ケガ(肉離れ)やら 膝が調子が悪く、あまりにも稽古ができないので、剣道を考えているうちに、つい、ちと過激で、結論は堂々巡りのながーい話になりますが、、、

剣道の打突動作の習いの順番とでもいうのでしょうか、「大強速軽」という‘教え’があります。「大きく→強く→速く→軽やかに」というように一般的には言われていますが、正直どうなのかなと思ってます。
また、「技は大きく、気は強く、息速くして、足は軽やか」と解釈されてるのもありますが、これは少々無理があるような気がします。

そもそも、この‘教え’は歴史的にそんなに古いものではないと聞いたことがありますが、「大小」「強弱」「遅速」「軽重」などのそれぞれが関連のあるカテゴリーを、バラバラに分けた上、上記の順番で体得していくのが、果たしていいのかという疑問をいだきます。

私の学生時代に、大学の師のひとりに教わったのは2文字ずつ区切るというのです。
「大きく強く〜速く軽やかに」といい、技術を洗練していくような感じで、これは的を射てると思っています(軽は軽妙、上手さ的な意味を含んでるように思ってます)。

しかしながら、へそ曲がりの私は、本音の部分では、、、運動学習、、、ということから考えると、間違っていないかと疑問を持っていました。

前ぶろぐ「基本」論の続編とでも言えるでしょうか、以下をふまえて展開したいと思います。

> 拙ぶろぐ:「基本」:剣道の‘教え’を考える[2]


まず、なにが間違っているのではなかろうかということについては、、、

「小さく→大きく」、「弱く→強く」、「軽く→重く」、「ゆっくり→速く」、「近く→遠く」、、、などなど。

こういう「適切な課題」をクリアしていくのが段階的指導、運動学習の正しい手順であり、コーチングの常識とされているのでしょう。
これをふまえて考えると、大きくから、強くから、、、というのは間違っているはずなのです。

でも、しかし、、、
前ぶろぐなどのように、剣道における「基本」などなどを考えてくると、、、

段階的に教えるのが、はたしていいんだろうか・・・と考えてしまうんですね。
こうなっていくと私の学位とか、職業柄、何を勉強してきたんだって話にもなっちゃいますけど(汗)

そうなんです、段階的に教えていくと本質に行き着かないでやめていってしまうヒトをたくさんつくってしまうんじゃないだろうか。
わかるやつはわかっているのに、そういう本質のみえているものまで、なかなかそれに辿りつかない稽古・練習に嫌になって、やめていってしまうこともありうると思います。

私の尊敬する先輩のブログにも禅問答みたいな投稿がありますが、、、私は納得してしまっている部分も多分にあります。

> My Happy Twitt Life! 武道に関する私的なつぶやき: 武道の普及とは何ぞや?ーわからない事をわからないまま理解するー

つまりは、わからんことをわからんということが重要だと。
でも、やるんです!わかるまでやることがさらに重要なんです。

また、この先輩とTKBの後輩と、かれこれ1年前に六本木なのに、、、居酒屋一軒でで6時間近くにわたり話していたことが以下です。
酔っ払って、アップするブログを間違えているあたりが可愛いけど、よくまぁ酔ってここまで書いたなと(楽しかったなwww)。
今回のネタは、このぶろぐのパクリ的な内容でもあるけど、剣道バージョンということで。

> My Happy KEIBA Life!: 六本木にて

にわか仕込みで、本質まで辿りつけなかった輩ども、つまりは巷のにわか評論家がわかったふりしてあーこー言うのが、ほんとに好きではありません。
、、、その世界を悪くするような気がしてなりません(報道ですらこうなる場合もあります、一方報道してもらわないと普及しないという点もありますけど)。

わからん、理解出来ない奴らはその世界にはきっぱり諦めつけてもらって、別の世界でもしかしたら才能があるのかもしれません、いや、あるはずなんです。

わざわざ段階的にして、その世界に確保しておく必要もないのではないでしょうか、、、

いろいろな個性や才能がいきり立っているような社会のほうが高くあるだろうなと思っています。

※諦めないで、四の五の言わず邁進することも重要だとも思っていますし、そう思わないと私も今いられないでしょう。ちなみに個々の問題でいつ花開くかはわかりません。早く始めても遅く始めても、つかめるひとは何かつかめるでしょうし、本質を理解するでしょう…その見極めについては全くわかりません。かくいう私は全くもって、わかっていないでしょうし、この世界に寄り添ってハナでも開かないかなぁと待ち続けている輩のひとりなんですから。

話は大きくそれましたが、、、(いや、それてないな)

つまり、前述の先輩と話したように、とくに武道は本質から教えていると思うんです。
「基本=神髄・真髄、奥義、極意」 と位置づけるとその方法で勝つの一番無理がないのだろうと。

「大きく強く」は、その目的からはまったくもって本質であり、こう振れれば、下手でも少々テクニックがなくても殺傷できるでしょう。
しかしながら、その大きく強く振るためには、その機会をつくること、相手を崩すことなど、かぎりなく無限かつ深い過程を持ち合わせているのですが・・・

一方、技術として捉えた場合には、技というのは合理性とか経済性のあるものであり、、、洗練化したものが「形」と言う事になるのですが…
この観点からは大強こそが是ということは、こちらの論からは少々ズレがあることになりますね。

しかしながら、本質である「大きく強く」撃つこと、その感覚やそうやって打突をできる「理合」を体得することをおさえつつ、それを洗練した技術「速く軽やかに」していくという道程をかんがえると、、、
「大強→速軽」は、本質をおさえて、体得すべき順番を展開している‘教え’ということになるのでしょうね。

学生時代に教わったまんまです、、、今頃理解しはじめるなんて、愚デシです、わたくし。

そして、その「形」ともいえる洗練化させたエッセンスを体得する、技術を定着するためには、ひたすら反復して、俗にいう「おもしろくない」稽古をする。
そう、シンプルにしているからこそ、面白くなく感じてしまうことを、、、何度やっても同じようにできる再現性の高い技術を身につけないといけません。

前述のように、技前の攻めとか崩しの部分の手順は、対人的なこともからみ、複雑な要因・要素があり、これ自体が応用であるかもしれません。
しかし、この手順も含めて、基本はどんな段階でもつねに芯として太くあり、変わらない位置にあると思っています。

つまり、「形」がしっかりしていれば、変化のある中でも、真髄である基本通りの動作で合理的な打ち方・突き方が出来るのだと考えているのです。

と考えてくると(ここは六本木からやや変容してきたところでもあります)、、、もしかしたら、、、武道と言わずにどのスポーツにおいても、いやあらゆることにおいても、基本通りにやることが極意で、実はそこから導入しているのかもしれません。
たとえばボールの中心をしっかり捉えることやしっかり打ったり蹴ったりすることなんかはまさにそうでしょう。

他の競技では「基礎」という言葉のほうがよく使うかもしれません。
ちょっと「基本」とは違う感じがしますし、違うんでしょうね(言語については専門でもなく、ここでは感覚的なままで)。
競技そのものがチームゲームでもあるため、変化や展開が武道より大きく(これは一概に言えません、狭いスペースでも深い意味を持ちますし)、戦略・作戦・戦術のためのベース、戦い方が複雑になったり、レベルが上がるたびにベースをアップしないといけないというような位置づけなんでしょうか、、、

他競技は門外漢なので一概に結論めいたことは出せませんが、、、

多くの修行者や選手は、これらをスタートとして初心者のやることと位置付けて、ないがしろにしているのかもしれません、、、発展的なことがかっこいいとか、、、
とくに剣道界では、基礎と基本が用語的に混同されていて、指導書にも「基本動作 →応用技能」となっていることもあり、そういう感覚が強いかもしれまんせんね。

どんな条件、状況でも運動課題の充足の仕方とかその質とかをしっかりと運動感覚をもって遂行するということは、やはり根幹が、つまりは基本がしっかりしていることが重要だと思うんです。
つまりここがちゃんと出来るやつが強かったり、大成しているんだろうなと。

というのがたっぷりの自分への戒め、自戒を含めて、今回の‘教え’から考えの行き着くところでしょうか。

あー、むずかしい、、私はダメだなぁ、、まずしっかりした素地がないもんなぁ。
だから、ながく書いて、まとまりもないし。
いろいろと指導したり、自分の剣道を考えるといろんなコトが堂々巡りしてるような気がしてなりません。
こうやってでも、PDCAサイクルじゃありませんが、向上してくれればいいんですけどねぇ。

また、しばらくしたら、ぜんぜん違うことをいっているかもしれませんし、書いたこと自体が的はずれかもしれません、、、剣道家をめざしているセンセ、ハンパものゆえ、あしからず、おゆるしください。
そう、「先生」とはちがって「センセ」、、、「イ」たらないのです。

先般、大会なども一緒に出たりする、とある全国大会常連の高校の先生のところ(冒頭写真の脇)に伺い、そこで稽古をして、いろいろと話す機会がのありました。
指導者としても、ヒトとしても、私が一目も二目もおくお方でございます。

そして、まず、ながいんです、、、そこの稽古時間が(2時間くらいの地稽古=立切、生徒はその前に技の稽古をしていますから…)。
これも徹底した反復練習なんでしょう、、、(苦笑)

じつは今度、本を出すらしいんですよ。

でも、言っていました、、、みんな妙なことばかり書いてんだよ、大事なのは基本なんだよ、それ以外ないんだよなぁと、、、ステキです!!!

ということで最後にその学校に掲げられていた一句。

稽古とは一より習い 十を知り 十よりかえる もとのその一 (千利休)

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3 コメント

  1.  ≪…「稽古とは 一より習い十を知り 十よりかえる もとのその一」…≫を、数の言葉ヒフミヨが、平面からの送りモノとして眺めると、[もとのその1]は、[十牛図]に観る一連の流れに[一を聞いて十を知る]が見とれる。
     これは、五色の十の[五蘊物指]から[1]が生まれるようだ・・・
     この物語の淵源は、3冊の絵本の力で・・・
     すうがくでせかいをみるの
     マンマルさん
     もろはのつるぎ
         (有田川町ウエブライブラリー)

  2. ども、組長。
    ケガは大丈夫、ケガは楽しんでます。
    けっこう、ポジティブなんで、テーピングして、、、
    「いつか私のアシも効かなくなる年になる、そういうときの予行練習、、、」
    なんて、いって稽古を。結構楽しいよ。
    ただ段階的に老化してない部分がね、、、ここだけしっかり押さえておけば、再発もあまりしないでしょ。

    さて、ぶろぐではこうはいいつつ、自分にも指導にもいまだ活きていないんですよ。
    まだまだできていないからですねぇ、修行の身の私の堂々巡り。
    タイトルの「大強速軽」についてはまとまってんだけど、「基本」については、まだまだ。

    また、よろしくね。

  3. 待望の基本論の続編ありがとうございます!
    そしてご馳走さまでした!
    何度も読めます!

    そして、この興奮を誰かに伝えようとしてみるものの、
    上手い事伝えられない自分が情けないです(汗)

    しかし、こういうのって伝わるものなんでしょうか?

    自分のボキャブラリーの無さを棚に上げて言うのもなんなんですが?(汗)

    610先生も言う通り
    「今、伝わらなくてもいつか分かるかもしれないし、分からないかもしれない」
    だから価値があるという理解でよろしいのでしょうか?

    ただ、こういった基本の本質論を持った上で指導するのと、何もなくやるのとでは『厚み』が違うような気がします。

    ただ、野球ですと、「甲子園=高校生の野球」なので高校生までのうちに何とかしたい。
    という事情がありまして、本質論までいかないような気がします。

    イチロークラスになろうと思えば勿論、本質論なんですが、
    そもそもあそこまで野球をやること自体が異常なわけでして・・・

    その点でも、剣道は『長い時間をかけて追求するもまたヨシ!』
    という雰囲気が私は本当に素晴らしいと思います!

    しかし、私自身の事を考えますと
    『伝わらなくても仕方ない』
    というスタンスにはまだまだ辿りつけそうにありません。
    やっぱり伝わって欲しいとか、「できれば楽しんでほしい」なんて俗っぽい事を考えてしまいます。

    この辺りが武道との根本的な違いなのだと思います。
    とりとめの無い文章になってしまい申し訳ありません。

    最後になりましたが、ケガは大丈夫なのでしょうか?
    くれぐれもお大事にしてください。

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