昭和の剣聖 高野佐三郎先生
昭和の剣聖 高野佐三郎先生

大震災があり、デシ仕込み、自らの仕込みができない事態が続き、先般復活しました。
試合の日程は変わらないので、いままでのプログラミング(稽古計画)ではうまくいかないのは明白、やはり徹底して、、、「基本」しかないと思っています。

そう、「守破離」です。

> 拙ぶろぐ:「基本」:剣道の‘教え’を考える[2]
> 拙ぶろぐ:「大強速軽」:剣道の‘教え’を考える[3]

そして、デシどもにも、こういう認識を植えつけていくしかないでしょう、、、頑張りたいと思います。

「守破離」、これは能の世阿弥の教えが元とも言われています。
既出のぶろぐ「基本」の話の続編、第3弾ともいえるかもしれません。
(全てが基本になりそうです・・・ほどほどにします^^; )

さて、戦前に現代剣道を確立された某先生の私塾がありました。
そこで修行されたジサマ先生と学生になってからご縁ができまして、お話しをする機会が多くありました、、、その私塾の最後の塾頭とか。
その先生からお聞きした「守破離」の話が、心にいまだにあります。

今回はそのジサマ先生の回顧もふくめて、、、ほんわかと(?)


そのジサマ先生とのご縁は、私がいまでは“隠れ家”とか“研究室別室”とかとよばせてもらっている剣道具店に、そのジサマ先生も入り浸っていたんです。
私の出身大学もこの私塾の某大先生の流れ、ジサマ先生も大学とかの経緯は違うものの、その某大先生のデシであり、教育者をめざすということで、可愛がっていただいたのかもしれません。

戦前だし、剣道でメシを食うようなこともできた時代ですし、生死をかけたような「修行」をしてきたのは聞いているんです、、、想像を絶するような。
でもコワモテ、デッカい容姿にかかわらず、、、
「剣道袋に防具だけでは寂しい。袋にはいろいろな剣道を詰め込みたいネ。」なんていうステキなジサマ先生。
食事をよくご一緒させていただき、お話もたくさん伺いました。
そして、大食漢のわたし、当時のフードファイトをいつも笑顔でみてくれて、、、と、いうのは、、、食べ続ける間、わたしはジサマ先生の話を聞きつづけることができると思ってガンバっていたんです。

まぁ、ライスどんぶり10杯は当たり前、、、などなど。

こんなジサマになりたいと思っていましたし、いまも思ってます。

まぁ、聞けば聞くほど、あんなヒトになれるわけないなぁというくらいの怪物でしたがね。

さて、このジサマ先生、とても勉強をされていた教育者。
とっても褒め上手で、わたしもおだてられて、頑張ってしまったというところが多いんです。

「あなたはいいよ、よくなるよ」と。

高校までしっかりとした稽古・修行を積んでもない私、その言葉で勝手に自分がセンスあると勘違いしつつも、思い込んでやっていて、大学4年の時にようやく選手になれたときに、改めてその言葉について確認をしてみると、、、「そのままの気持ちで30歳まで続けられたら」と追加されたり(汗)
まぁ、運良く、東京都には教員採用してもらえず(勉強不足で不合格)、大学院にいって(こちらはたまたま合格)、さらには残してもらって、30歳ちかくまで恵まれた機会を頂き、いろいろ沢山の反省はあるものの、どうにか気持ちだけはジサマ先生の言葉通り続けられたかのかな(結果はまだまだですし、これから⁇ 自信なんてまったくありません、ホントに反省ばかり)。

では、ようやく本論に、、、このジサマ先生の話で、とにかく印象に残っているのは「守破離」についてです。

一般に「守破離」は、「修行」を積む過程、順序をしめす教えで、師からの教えを段階的に「守」→「破」→「離」とし、最終的に離れてもイイなんて解釈もあったりします。
(この手の解釈については、お調べください)

しかし、そのジサマ先生は、以下と言っていました。
すごく含蓄が多く、時間が経てば経つほど、、、深い、スゴい、解釈・表現・説明です。

「守」 → 「守破」 → 「守破離」

つまり、「基本」は絶対はずせないってことだと、思ってます。

剣道は「基本」から入ります。
それは、全日本はじめどんなレベルの大会でも、基本通りの技が決まると感銘を与えるように、それが「神髄・奥義」だからだと思うのです。
様々な現象を、動作にしても、手順にしても、研ぎすましたもの。これが、「基本」といわれているものではないかと考えていますし、だから「基本」を数をかけるのが、剣道の指導法なんだと。

したがって「守破離」も、革新的な展開などということでなく、このジサマ先生のいう「守→守破→守破離」という「修行」の説明が正しいのだろうなと。

また、「修業」は、何かを身につけるための業であり、一定の業を修め基準をクリアすれば卒業、終わりがあるものだそうです。
一方、「修行」は「修業」とは違い、卒行という言葉がないように、終わりがない、つねに高い段階を目指して努力する意味合いもふくむものと言われています。

ですから、そもそもの根本、徹底してシンプルな「原理」を突き詰めること、つねに「基本」を求めることが、武道的な追求の仕方なのかなと。
こういうことから、「基本」の追求、すなわち「修行」もおわりがないものと言えるんだろうと、勝手に合点してます。

私個人としては、夢ですが、、、名人の域とでもいうのでしょうか、、、どうやっても基本通りというようになりたいなぁ、と。
(ムリだろうなぁ・・・ )

また、大学時代の師匠のひとりが、以下の言葉を話されていました。
これについても記憶に残っているので、若輩者にもインパクトがあったのでしょう。
いまだに、好きな言葉であります。

「格に入りて格を出ず」

これに関連して、松尾芭蕉の『俳諧一葉集』には以下のようにあります。

「格に入りて格を出ざる時は狭く、また格に入ざる時は邪路にはしる。格に入り、格を出てはじめて自在を得べし。」(松尾芭蕉『俳諧一葉集』)

つまり、「守破離」に類似するような言葉なんでしょうが、その「基本」の重要性をより強く、文面上に説いているとおもいます。
本当に、本質とか、基本を身につけてこそ、自在に技を扱えるのかなぁと。
なぜ、現在剣道界で、最近あまり使われることがなくなったのかと、、、不思議に思います。

また、笹森順造先生の『一刀流極意』には、以下の言葉があります(再出です、、、)。

「一刀は万刀に化し,万刀は一刀に帰す」(笹森順造『一刀流極意』)

まぁ、説明すると長くなりそうなので、調べてくださいね、今回もメモ程度にとめておきます。
これまた、スゴい言葉です…
(機会があればこれらの言葉でまたネタをおこせればなんて思っております、、、以前にもこう書きましたが)

事理一致、師弟同行を目指して、すこし勉強するようになった今、、、自分の実践だけでなく指導も頑張るようになった今、、、すでに、ジサマ先生はいません。

今更だが、もっともっとジサマ先生の話をききたかったなぁ、、、合掌。

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