やっぱり剣道しかないのですが、新シリーズを考えてみました。
剣道における‘教え’についての疑問を自分なりに問題提起・解決して考えてみようというシリーズはどうでしょうか???
研究解明というレベルまでではなく、こう考えるのもありというレベルで・・・
そもそもわたくしは、最終学歴とかはそこそこと思われるかもしれませんが、高校時代までは稽古回数も同期のヤツらの半分にも満たない、正師にもつかない、専門家といわれるような方に指導を受けたわけでもない駄馬・・・剣道や剣道界を全く知らない人間でした。
いまもわかっていないところはいっぱいあります、そういう私なせるワザ、、、「なぜなぜ」をいろいろと考えていきたいと思います。
まずは、、、「一拍子の打ち」
剣道の指導書で「一拍子の打ち」が重要と書かれているものも多々あります。
しかし、最近見かけるのは、、、
「構え〜振りあげ〜振り下ろし〜構え〜・・・」という三挙動(三分割)の打突動作の指導。
「構え〜振りあげ&振り下ろし〜構え〜・・・」という二挙動(二分割)の打突動作の指導。
この流れから、構えから打突までを「一拍子」にしようと指導する風潮があるような気がします。
つまり、すばやい竹刀の振りあげ&振り下ろしと移動動作をしろという‘教え’のようにとらえられているのではないでしょうか。
ゆっくりでも1つの拍子は存在すると思っているのに。
「木刀による剣道基本技稽古法」の指導の留意点にも「一拍子」で行わせるように記載があります。
この意味合いも、上記同様のことと感じています。
剣道の打撃動作である「振り上げ〜振り下ろし」と「踏み切り〜踏み込み」の動作を一瞬にして行うことを、リズムの話を用いて説こうとしている無理を感じています。
つまり、竹刀を振る動作(振りあげ〜振り下ろし)にしても、足を踏み込む動作(足の振りあげ〜踏み込み、足を上にあげて〜下ろす)にしても、それぞれ動作の方向の切り替えが行われているわけで、1つの拍子でとらえることはおかしいんじゃないかという疑問をいだいていました。
どうしても2つになると・・・
そこで、「拍子」の意味を調べてみると、、、以下。
wikipediaより
拍子(ひょうし)とは一般には、拍や拍の連なりのこと。西洋音楽では強拍に連なるいくつかの拍の集まりの繰り返しを言う。日本では「三三七拍子」という言葉でわかるように、この言葉は、西洋音楽の定義の「拍子」とは異なる使われ方をする・・・
西洋音楽で言えば、「一拍子」そのものはないことはないのですが、それ自体を拍子と呼ぶかという議論もあるようです。
たまたま、卒業したデシのひとりにインディーズで、音楽をして生計を立てていたものがいました。
彼と議論したことがあります。
剣道界でいうところの「一拍子」は、、、「拍」のどう入れるかの問題ではないでしょうか、、、じゃぁ「一拍の打ち」が正しいのか?、、、「拍子」を「拍」にしたところで剣道界で浸透しねぇなぁ、、、といった話をしたことを思い出します。
※こういう会話ができるのは専門コースにいない自分の幅になるんですね。
※後述のように「拍子」の日本的な意味合いを知らないを知っていたらこういう展開にはならなかったんでしょう、無知でした。
また、言葉の意味をさらに調べると、リズムのことばかりだけでなく「はずみ、とたん」という意味もあります、、、
こうやってみてくるとウィキペディアの、後者「日本では」の部分や、辞書で調べた意味が重要な示唆をしていると思います。
そもそも宮本武蔵「五輪書」から、この言葉が剣道界で使われることになったのではないかと思っているのですが、、、(勉強不足のため、この発端についての限定はできません)
「五輪書」では以下のように、「敵を打つに一拍子の打ちのこと」と、このことの重要性を説いています。
「五輪書」より
敵を打つ拍子に、一つ拍子といひて、敵我あたるほどのくらゐを得て、敵のわきまへぬうちを心に得て、我身もうごかさず、心も付けず、いかにもはやく、直に打つ拍子也。敵の太刀、ひかん、はづさん、うたんと思ふ心のなきうちを打つ拍子、これ一つ拍子也。此拍子能くならひ得て、間の拍子をはやく打つ事鍛練すべし。
だんだんと曲解されていったのではないかと思っています。
ここでいう「拍子」とは、応援などでの「三三七拍子」のように、そのタイミングや機会に間髪入れず、拍手やあいの手ををいれていくということととらえるのがいいのではないでしょうか。
剣道で言えば、打突の機会の「とたん、はずみ」、つまりは打突の機会をのがさず間をはずすことなく、打突をするということとでもなるのでしょうか???
そういうことから、はやく反応するということが重要であることは間違いないのです、
しかしながら、加齢とともに反応は遅くなるわけで、そのはやく動作をすることばかりが極意ではないような気がしてなりません。
つまり、機会をとらえることがこの教えの根幹であって、リズムの話ではないと思っています。
「一拍子の打ち」というのは日本的な言葉としての「拍子」であって、音楽用語「リズム」としてのとらえ方ではなく、機会をはずすことなくとらえるという‘教え’と考えると、非常にスッキリというか、腑に落ちる(正しくない日本語ですね、スミマセン)ように感じます。。
指導者にも言っておきたいと思います。
「一拍子の打ち」が重要だといって、初心者にとって動作を速くさせることは、運動学習の理論、たとえばゆっくりから速くしていくなどといった原則からはおかしいと言えます。
初心者にはこのような事を無理強いせず、基礎的な動作を体得させ、しかるべき段階でスピードアップなどをしていくべきです。
(あ、、、BKKへの問題提起がまたでてきた)
また、剣道における打突の機会を理解すること、その機会をとらえたり、作ったりすることとなると、初心者にはムズカしく、押し付けられるものではないと思います。
また、「一拍子の打ち」 というものに対応する言葉として、「二拍子の打ち」というのはありえないと思います。
「五輪書」にでてくるのは「一つ拍子」であり、二つはないので後塵のわれわれが造語をつくり、解釈をリズムのことばかりにしてしまうのはいかがなものかということです。
運動にとってリズムを勘案することは非常に重要です。
しかしながら、ソレとコレを混同してしまったために、現在では初心者だけでなく、指導者ですら惑わせる状況になっているのではないかと思います。
ということで、あくまでも私見としておきますが、、、、
剣道の‘教え’の「一拍子の打ち」は、機会に間髪をいれずあいの手を入れる感覚というような「機会のとらえ方」、重要であるものの非常に高度な段階、‘教え’であると考えるといいと思っています。
言葉ってむずかしい、、、こうやって惑わされる、、、伝言ゲームと一緒かもしれませんね(汗)
いろいろと表現的に不適切というか、未熟な部分があります。
しかし、日本では「拍子」という語に2つあるということから、剣道界で意味のとらえ方が混同していることがあるのではないかということ、わざわざ難しくしていることによって、遠まりしていることもいっぱいあるんじゃないかということへの喚起だとおもっていた だければ幸いです。
かくいう私は遠回りばかりですけど・・・
<2010/11/15追記>
笹森順造著「一刀流極意」には秘伝次第の章、極意秘伝の編に「調子」と「拍子」が項を分けて書いてあります。
「調子」
調子のとり様は曲合の利を完うする上に大切である。人の気象によりその太刀の動く調子に遅速、軽重、長短、繁閑、奇偶、利鈍など様々ある・・・
「拍子」
調子の決する所は拍子である。調子よく敵を攻めておいてその究極の拍子に於て敵を一挙に仕止めるのである・・・
この本は、別の言葉で非常に大好きな言葉があり、好きな本だったんですが…
上記については、今回のぶろぐネタでは掲載し損ねてました…追記させてください。
非常に平易な表現をしてしまうと、調子が運動リズム、拍子がその機会ということになりましょうか。
でも前述のわたしの思いを裏付けてくれたような気がしています・・・ウレシ(^^)
lohichiさま、yamakiyaの旦那さま
コメントありがとうございます。
賛同いただき、ありがとうございます。
日本語ってムズカシイですね、、、
これは私なりの結論で、こう考えておくといろいろと指導や実践の場ですっきりできるとのことを、科学的な研究に行く手前の忘備録としてアップ出来ればと思っています。
間違ったことを書くかもしれませんが、その時はダメだししてやってください。
よろしくお願いいたします。
センセの解説はすごいです、納得です。
たまに稽古をつけて頂く高段者のせんせの指導が1-2を単に1(1-2)と言葉でいっているようで本当は違和感??、とは言え納得しないまま「はいっ!!」と竹刀を振り続けていましたが、本当に理屈にあうご高説有難うございました。
今日から分厚い鱗を外して稽古に励みますですm(_ _)m
素直に、動きを一拍子にしよう、させようと頑張っていましたが「加齢とともに反応は遅くなるわけで、そのはやく動作をすることばかりが極意ではない」には納得。「機会をとらえることがこの教えの根幹」「機会をはずすことなくとらえるという‘教え’と考える」は、最近考えていることですが、これが一拍子と繋がるとは思っていもいませんでした。面白かったです!