ひさしぶりの「‘教え’を考える」シリーズ、、、。
最近、重心をどうのこうの言ったポストの中で、ハラ、そして「発声」なんて書いてしまいましたし、、、気になっていたので、今回は、剣道の「発声」についてちょっとだけ勉強してみました。
> 拙ぶろぐ:「重心を変えずに、、、」って指導は道理か否か。
剣道は打突部位「メン、コテ、ドウ、ツキ」を呼称して動作を行います。
このようなことをする運動競技は、剣道以外にはほとんどない思います。
サッカーでいえば、「右」といってPKを右に蹴るのに近いものがあると感じます、、、そうです、「ありえない?」 なんておもったりもするんです。
ルール(以下URL)には発声などについては限定するような記載がないのに、何故か声をだすこと、しかも打突の部位を呼称することということが展開されているんです、、、
> 全日本剣道連盟『剣道試合審判規則』:http://www.kendo.or.jp/kendo/rules/rule1.html
第12条 有効打突は充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする」
さらにいえば、稽古は形のごとくなどといって、剣道の基本・真髄となる「日本剣道形」での発声は「ヤー・トー」という発声だし、、、
ということで、この手の史的なことや思想的なことは専門外なのですが、「発声」について、冒頭に書いたようにすこし勉強です、、、わたしの不勉強ゆえの勉強メモです、これは。
<打突部位について>
形稽古から竹刀・防具の改良がされ実践的になってきた中で、致命的であり、戦闘不能とする「面、小手、胴、突」の4箇所に集約してきたと言われています。
これらの箇所は人間としては防衛本能がはたらいて本能で避ける箇所(メン、ドウ、ツキ)や、手元(コテ)は動きやすい箇所であるので、そのすべてが打突するのに非常にムズカシイところを定めたことになります。
これらを打突できる技術を身につけることで、他の肩口から袈裟斬りにするなどはできるようになるという思想でもあるのかなと推測しています、、、あくまでも推測です。
<声について>
宮本武蔵の『五輪書』のなかの「三ツの声と云う事」という項目に、打突・斬突時に声を発することは様々な面で効果的であることが書かれています。
また、現代剣道のバイブルといえる高野佐三郎先生の『剣道』には、以下のように説明しています。
本来は自然発生が一番いいとも書かれていているものの、初心者には打突時に打突部位を呼称して声を出すように指導するとしています。
懸聲は是れによりて我が勇氣を増し、撃ち込む太刀の勢を加へ、敵を威嚇し、其舉動を制す。是れにて能く精神を緊張せしめ、心身の勢力を集注し得るものなり。・・・
以上から、相手を威嚇することもありますが、声の効用が力発揮特性などとの絡みで、昔から説かれてます。
このように声を出す指導と、呼称しての発声が指導として展開されているのもあり、試合審判規則の有効打突の要件の一部が「呼称しての発声」という解釈で慣習化されているともいえましょう。
修行を積んだら「無声に至る」なんていいますけど、まぁわたしは名人になるわけもないですし、イたらないということで、あわててはいけませんね。
また、声をだして長く続けてきたので、声なしで打突するのはかえって困難ですしね。
力を発揮する時は声を出すものですよね、、、細かいことの説明は抜きにしても、「よいしょっ」なんて言って動くのは端的な例と思います。
声を出すのはやはりいいということなんです。
<打突部位を呼称することについて>
そもそも、掛け声は各流派などで異なっていたようです。
「シ、エイ、トー」「ホウ、トー、ヤ」「ソレ」 などなど。
個人的には、日本剣道形の「ヤー、トー」といった少ないほうが動作はしやすいだろうと思います。
これは、前述の『剣道(高野佐三郎)』の本来は自然発声がいいという記述にちかいものとなるでしょう。
しかしながら、その一方で高野先生は剣道普及発展への貢献をされた方であり、著書「剣道」はいまでもこの界の指導書として、確固たるものであります。
このなかで、集団指導などもとりあげたりしていますが、指導の方法の統一が必要であったため、打突部位を呼称して打突させるということもでてきたのかなということも考えられ、そのため、これことが定着してきたのかなと推測もされます。
また、明治に入って行われた「撃剣興業」というショー的なものにより、技を観客にわかりやすくするために呼称したとか、その逆に、このショーによって乱れた発声を是正するために掛け声を定めたといった説もあるようです。
まぁ、こうはいっても現在の剣道でも、熟練者になると、その掛け声たるや、個性(?) があって、メン?、コテ?、、、なんていっているのかわからないようになりますよね。
これこそ自然といえるのかもしれませんww
さらに、いろいろな資料で興味深いのは、、、高野佐三郎先生が『日本剣道教範』の中で、過去の発声について書かれているクダリ。
往古は素面素籠手で稽古したるをもって、まず面と呼びまたは籠手と呼びて、あらかじめ注意を惹きて打ち込めるものなりという。されば不意に発声なくして撃つを古来聲撃ちと称し、卑怯なる打ち方として武士はこれを擯斥したり・・・(略)
これからは、江戸中期あたりから打突部位の呼称に変化していったのではないかと言われているという見方がひとつできます。
そして、興味をひくのは、その当時は刃引きや木刀での形稽古であり、怪我の危険性が高かったため、安全確保のため(?)の打突の事前に発声をするという方法が慣習化されていたとも解釈できるのです。
いわゆるリスクマネジメントですね、、、わたし自身、運動指導屋さんという職業がら、非常に興味深い話です。
その後に竹刀・防具の改良もあり、実践的な稽古もするようになったため、打突部位を呼称して打突することは、この観点からも加速されたのかもしれませんね。
さらに、余談ですね。
資料としてオモシロイなとおもうのは、剣道の歴史上忘れていけないのは戦後スポーツとして復活した際に、その中継ぎ的な役割ををしたといえる「撓競技」。
この競技では、自然発声以外はNGだったようです。
その意図としては、深くはわかりません。
剣道の復活ではないということがあったのでしょうか、、、。
どういうふうにやっていたのか、まだこれを知っているご存命の大先生方がいますから、今度聞いてみたいと思います。
<さてさて、、、>
こんな感じで少々しらべてきたものの、発声の効果と呼称の効果を関連付けるまでにいたっていません。
ここからは私見であり、裏付けもたいしてありません。
とある大先生がよく言われる言葉で、私の中で解釈はしきれていませんが、心に残っているのが以下です。
これに絡めつつ、考えてみたいと思います。
「技を出すまでが剣道、技を出したら運動」
剣道が、「構え〜攻め(崩し)〜打突〜残心」という過程で展開されている中で、打突する前に勝敗が決しているとでもいうのですかね?!
ムズカシイですが、考えさせられています。
技を出すのが必然・必勝の状況を、技前の攻めや崩しなどという過程でつくる、またはうまれて、、、打突する、、、
この過程がきっちり出来れば、まず、発声して打突するのは前述の声を出すさまざまな効果が発揮されるんでしょうね。
そうなると、打突部位を発声して打突することはその前段階の剣道がしっかりできていたかの指標ともなるのかな、、、どうでしょう?
行動科学の話では、「認知・判断・行動」という過程を経て、人間は行動するわけです。
このように考えると、打突部位を呼称して打突をすることは、上記の剣道をしっかりしていて、行動をとるために認知・判断の回路がしっかりとしているというカッコイイことになりますね。
これ自体は、やるほうは高度でむずかしいことでしょうけど、やれるならやりたいもんでし、目指すべきでしょう。
これをやられたほうは、めちゃくちゃショックになるでしょうね。
この時の「発声」は勝ち名乗りをあげるのような意味合いになるのかもしれません、、、それは当然打突部位も呼称したくなりますよ。
勝つべくして勝ってるんだから、、、
ある研究では有効打突をとったときの発声は、そうでなかった時より、発声する時間が長いと報告もありますしね。
つまり、ポイントを取った時の声はながいということ、「勝ち名乗り」を長々とあげているみたいなんです、実戦でも。
これは、いまの剣道指導のバイブルともいえる『剣道指導要領』(全日本剣道連盟)にも以下のようにあり、最後の部分はこのことにあたるといえましょう。
心に油断がなく気力の充実した状態が自然に声として外に現れたもの。自分を奮い立たせる声、相手を威嚇する声、勝ちを知らせる声などがある。
ということで、声を出すこと、打突部位を呼称して打突をすること、いろいろとまだまだ深い意味は有りそうです。
素直に、ちゃんと打突部位を発声して、剣道を続けていく、、、これがいいようですね。
打突部位呼称の発声をレトリックみたいだなんて疑問を持っている時点で、すでにわたしはダメダメなのかもしれませんけどね。
名人になれば自然発声というか、個性豊かな発声になっています。
なによりも、打突の機を認知・判断して打突(行動)する、これこそが重要で、やらなくてはならない、やろうと求めないといけない過程なんだろうな。
身体能力はどんどん低下するでしょうから、こういう技前の判断決断、、、剣道をしっかりして、打突運動にするってことかな。
発声については、もっと勉強しないといけませんね。
うーん、まだまだ私にはとてつもなく遠いな、まったくみえないな。
ということで、大きな声をちゃんと、出しいくことにしましょう!!!